第 31話 〜 第 60話

第 61話 〜 第 90話
第 91話 〜 第100話    



 


第1話 磯焼けと釣り!

磯焼けと釣り!

 「磯焼け」とは、ウニやサンゴなどによる食害、水質汚染や土砂流入等の環境破壊等により、コンブ、アラメ、カジメなどの大型藻類が枯れてしまい、石灰藻類が海底を覆い尽くしてしまう海底の砂漠化現象です。

 この「磯焼け」は、昆布やワカメ・ヒジキなどの藻類をはじめ、サザエ・アワビ・バテイラなど大型藻類を食料とする貝類、これらを産卵場所、隠れ家、住み家とするカニやエビなどの甲殻類、アオリイカやタコ、イシダイ・メジナ・クロダイ・カサゴなど多くの魚類が住めなくなりますので、海で生活する漁師にとっては壊滅的な打撃を与えてしまいます。
 これは、漁師に限ったことではなく、釣り人やダイバー・観光業者にとっても大きな痛手となります。

 「磯焼け」は、北から南まで世界の海で起きており、その原因も様々ですし、要因が複合している海域も多いようです。

 北海道から三陸の海域ではムラサキウニが、本州では食害に加えて、工場や家庭排水に含まれる富栄養の汚水、開発による土砂の堆積等、九州以南では加えてサンゴによる大型藻類の着床阻害等が原因となっています。

 この「磯焼け」の原因は、釣り人にとっても無関係ではないようです。
 今はほとんど見られませんが、以前外房の磯場では、台所洗剤やクレゾールなどの薬品を使ってイソメを採取している方が少なからずおりました。この薬害により数年間は磯焼けがマダラ模様に見られました。

 また、オキアミや配合餌などの天然素材の集魚材は、適度に使えば食物連鎖により魚介類の成長にも好影響を与えますが、濁りを出すためにこれらに混合する赤土や砂は分解されずに堆積しますし、天然素材の集魚材であっても釣り場の自浄作用を超える大量の撒き方もヘドロとなって堆積します。これらの場所では「磯焼け」だけでなく、全ての生き物が生きることが出来ません。

 自衛隊堤防、千倉漁港、鴨川漁港、勝浦港の海底では、赤土の堆積とヘドロ現象が顕著になっていますし、その他の磯や堤防にも広がっているようです。

 釣り場の「撒き餌禁止」は、釣り過ぎだけでなく、撒き過ぎと帰るときの大量投棄による磯焼け防止への警告でもあるのです。

 余った釣り餌は、持ち帰って塩抜きすれば、家庭菜園や鉢植えの肥料として活用できますし、冷凍すれば次回の釣行に使用できます。

 家庭排水や釣り場のゴミにも常に関心を持って、いつまでもきれいな釣り場と全ての生き物が共存できる環境の保全に努めたいものですね。(2004年6月)

  写真出典:        CEC.IPA「教育用画像素材集サイト」


   
 


第2話 私の釣りのバイブル

    釣り師の皆さん!  皆さんはバイブルにしている釣りの本やメディアがありますか。

 「磯・投げ情報」「陸っぱり釣り情報」「釣り情報」「つり丸」「釣り人」などの釣り雑誌?

 「堤防つり入門」「磯釣りガイド」「海釣り仕掛け全集」「海のルアー釣り」「餌木ング入門」などの専門書?

 「やどろく伝記」などのホームページなんてチャッカリ屋?

 「釣り専門ビデオ」「スカイパーフェクトの釣り番組」?

 私が最初に購入したのは、昭和52年に(株)西東社から発行された、服部善郎氏、松田年雄氏共著の「日本の釣り百科」です。定価は2,600円ですから当時の釣りの本としては高かったと記憶しています。

 この本は海釣り、川釣りの方法を網羅したもので、魚種別の釣り方、仕掛け、場所や釣り用語や釣期一覧などがこと細かに668ページに書かれています。

 私はこの本から、釣りのエチケットや気象の見方など多くのことを学びました。  この本は、私の釣りのバイブルとして今でも大切にしている一冊です。(2004年2月)


   









第3話 魚を煮付ける秘訣

    魚を美味しく煮付けましょう!

 釣り師の皆さん!

 今まで魚を美味しく煮つける常識とされていたのは、「煮崩れを防ぎ、旨味を逃がさないため、魚が半分隠れる程度の煮汁が沸騰しそうになってから鍋の底に切れ目を入れた竹の皮を敷き、魚を入れて木製の落し蓋をして、火が全体にまわってからお玉で煮汁をまんべんなくかけながら煮汁が焦げない程度まで煮詰める。」って思ってませんでしたか。

 料理の本にも大体このように書かれています。私が調理師の受験資格を得るために通った割烹旅館の親方は少し違ってました。こんな方法です。

 「厚手の浅鍋に切れ目を入れた竹の皮を敷き、魚を重ならないように、複数入れる場合は間隔を空けて並べます。そしてお魚が4分の1かくれるほどの日本酒と同量の調味料(醤油、砂糖、味醂)を入れて、周囲が1センチあく程度の小さめの落し蓋をしてから火を点けて煮るんです。沸騰してしばらくしたら落し蓋を取り、煮汁をまんべんなくかけながら焦げ付かないように煮詰めます。

 こうすると臭みが飛び、身が引き締まってとっても美味しく仕上がります。」是非お試しください。

 煮魚は鍋の中で裏返しすると煮崩れしますので、鍋から竹の皮ごと出して盛り付けてください。

 また、煮汁は薄口に造るとお魚本来の旨味が引き出せると思います。

 下になる方にはかくし包丁を入れますが、皮が薄いカレイなどを除けば、大き目の素材の時は表面に斜めに包丁を入れたほうが煮汁が沁み込んで美味しくなります。

 5月から9月までは木の芽(山椒の葉)を、それ以外の季節は南天の葉を添えると一段と美味しそうに見えますよ。

 今が旬のメバル、カサゴ、カレイなど美味しく召し上がってください。 (2004年2月)

  画像出典:  「釣りフォーラム」 WEB魚図鑑


   


ダイワの防寒ウエア



第4話 釣師はダサいか!

 釣師はダサいか!

 女性アングラーが増えるとともにウエアもカラフルに!

 昭和40年代には、釣りをする女性はほとんどいませんでした。
釣り人のファッションはデザインといいカラーといい機能性だけを追及してきたためとはいいながら、黒・グレー・紺・茶のオジンくさい格好が定番でした。

 昭和50年代の中頃になり、芦ノ湖や中禅寺湖などでルアーによるブラウントラウト釣りが始まるころから、若者がカップルで釣りを楽しむようになり、フアッショナブルなウエアが徐々に広まって来ましたが、防寒服はスキーウエアで代用している女性が多く見られました。

 この年代も海釣りは依然として男性ばかりで、ごく稀に中年の女性を見かける程度でした。

 昭和60年代から平成になったころ、カラフルなルアーによるバス釣りが北海道以外では徐々に増えはじめ、小中学生から二十歳前後の男女の別なく若者の間に爆発的に広がりました。

 この広がりとともに、男女を問わず実にカラフルでフアッショナブルなフイッシングウエアが次々に登場してきて今日まで続いています。

 当時のバサーが結婚して、キャッチアンドリリースでもより大物のシーバスを狙ったり、あるいは美味しく食べられる魚釣りをご夫婦で楽しむようになったことから、遊漁船にも女性用のトイレが登場したり、今では釣り人の2割から3割は女性が占めているのではないでしょうか。

 私の釣り仲間にも独身や既婚を問わず女性が増えていますし、相互リンクいただいているサイトオーナーや掲示板に訪問いただいている釣り人の中にも大勢の女性釣師がいらっしゃいます。

 そこで釣具メーカーの開発担当者に提案したいのは、例えばロッドやクーラーボックスはピンクの花柄にするなどよりカラフルなものも造ったらいかがでしょうか。

 技術的には問題はないのですから。(2004年2月)




第5話 愉快な釣仲間!

    東男さんの巻  その1

 プロフィールにも書きましたが、私が外房の某市に自宅を構えてからは、九十九里の防波堤やサーフから「イシモチ」を中心に「シーバス」や「ヒラメ」などを釣りまくっていました。

 九十九里での「イシモチ」の釣期は5月のゴールデンウイークから10月まで、「シーバス」は夏から2月ころまで、「ヒラメ」は秋から冬にかけてタタキ釣りやルアーで釣っていました。

 たくさん釣れるとご近所にお裾分けをしていましたが、東男さんもそんな一人でした。

 そんな時にしばしの釣り談義、島根県から上京して来るまでは「猪」などを猟銃で獲る猟師さんをしたり、岩魚や鮎等の渓流釣り、黒鯛などの海釣りもしていたようで、年代物の釣竿やリールなどを見せていただきました。

 そんなある日の夕方、釣り好きの弟さんとアジ釣りに行った帰りにたくさんのアジを持ってきてくれたのです。勝浦港でノベ竿にトリックサビキで入れ食いだったとか!

 早速仕掛けを揃えて、次の土曜日からいっしょに釣行させていただいたのが最初で、それ以来釣り方や釣り道具は大掛かりになりながらもアジひとすじに今日に至っています。

 私を外房のアジ釣りにとっぷりと浸かるように引き込んだ張本人・・・・・失礼!きっかけを作っていただいた東男さんは大師匠です。

 数年前のゴールデンウイークのある日、私と東男さん、東男さんの弟さんの3人で改修工事前の松部漁港中堤防でトリックサビキで小アジを釣っていた時のことです。

 暖かな日和だったので、私たちの他にもたくさんの釣り人や家族連れで堤防は大賑わいでしたが、釣れているのは私たちだけでした。それを見ていた小学校3年と1年の姉妹が、東男さんに「おじさんたちだけどうして釣れるの?」と話し掛けたのです。

 東男さんは「今日のアジさんは小さいから子供でしょ!あなたたちと同じで甘い物が好きなんだよねー。おじさんたちは餌にお砂糖を振り掛けてあるから釣れるんだよ!大きいアジさんの時はお酒をかけるんだー!」

 そのとたんに姉妹はパパとママのところに行って「お砂糖持ってきた?」と言い出したものだからご両親は「???・・・」ってご様子でした。

 また、ある日の外房堤防での朝マズメのお話ですが、その時はピンクのスキンサビキに涙型をした白のバイオベイトだけが爆釣で他の仕掛けはボツボツ程度しか釣れていませんでした。

 私たちのすぐ隣に20歳位のカップルがいて、同じくピンクのサビキで釣っていますが、サビキ釣りの餌なしのためやはりぼつぼつ程度しか釣れていませんでした。 連れの女性が「オジサンたちだけどうして釣れるんですか?」と東男さんに話し掛けてきました。

 東男さんは「同じように見えるけど、おじさんたちのスキンは夕べ使ったもので臭いが付いているから釣れるんだ。臭いがないのは釣れないよ!」ってからかったのです。

 暫く後ろで話していたカップルが「買い物に行ってきますから場所このままにしておいてください。」といって出かけてしまいました。

 昼過ぎに戻ってきたカップルがティッシュに包んだものを隠すようにしながら釣り鈎に付けようと悪戦苦闘の様子。私は「ええっ、まさか!」。それを見ていた東男さんは「付けてあげるから海水でよく洗って!」といって親切にもスキン鈎とカゴ仕掛けを作り、付け餌までプレゼントしました。

 「絶対釣れるから夕方まで待っててよ。」

 5時のチャィムとともに我々にもカップルにも入れ爆爆と釣れ、彼女は「やっぱり本当だった!恥ずかしいけど良かったね!」といってたくさん釣って帰っていきました。 東男さんらしいエピソードでしょ!(2004年2月)


   


第6話 愉快な釣仲間!

 良竿の愉快な釣仲間

 こばちゃんの巻

 私の釣行記にしばしば登場する「こばちゃん」は、釣り好きが嵩じて数年前に埼玉県某市から勝浦市内の某大手デベロッパーが開発した高級住宅地に転居してきました。

 こばちゃんは、熱供給会社の技術者でしたが数年前に定年を迎え、今では一週間に6日間は釣りという悠々自適の暮らしをしています。

 春から秋にかけては、外房港でアジやムツ釣りを3日、関東近県でのヘラブナ釣りが3日、そして冬は外房港でアジ、ムツ、サヨリ釣りを6日とほぼ毎日です。
 彼は釣ったアジを持って帰るのは何時も10尾位で、残りは釣れなかった初心者、女性、子供連れにプレゼントしています。

 また、こばちゃんは実に親切で、初心者と見ると釣り方指南役に徹しています。 奥さんと二人では食べきれないとか飽きたとかいっていますが、毎日釣っていたら飽きも来ますよねー・・・・・。

 転居してきた当時は奥さんも一緒に釣りをされていたのですが、折りたたみ椅子ごと海に落ちたことがあり、こばちゃんが「トドが泳いでいるみたいだ。」と笑ったことが原因で「二度と釣りはしない。」とご立腹されたとか。

   外房の海を見下ろす高台にある自宅の庭には、この冬場には猪や鹿が農作物を食べにくるそうですので、そのうちに鹿を獲って食べちゃおうなんて東男さんと話してます。  なにしろ東男さんは若いころ猪を撃っていたそうですのでねー。

 年に2回奥さんと海外旅行に出かけており、出発前には「2週間ばかり留守すっからねー」と電話くれます。

 うらやましいですねー。定年まで後5年に迫ってきた私には!
 こばちゃん!ごめんねー!(2004年2月)


   

   写真は「百舌鳥」


第7話 これも陸っぱり!百舌鳥釣りの話

    これは、私が小学校高学年から中学校までの5年間やった遊びです。

 当時は、学校から帰ると近所の子供たちが集まって、屋外で”メンコ””ベーゴマ””ビー玉””缶蹴り””チャンバラ””フナ釣り””木の実取り”など日が暮れるまで夢中で遊んだものです。

 テレビもテレビゲームもパソコンもなかったこの時代、本当に楽しかったですねー。

 小学校3年位から仲間に入れてくれて、中学2年が最年長と年齢巾は広かった!現代のように同じ学年の仲間だけで、塾の合間にテレビゲームで遊ぶのとは全く異質でした。

 そこで、年長者との接し方、年少者の面倒の見方、やって良いこと悪いこと、喧嘩のしかた、なんかを自然に学びながら育ったものです。
 そんな遊びのひとつに、”百舌鳥釣り”がありました。
 晩秋から早春にかけての漁師町ならではの遊びです。

 用意するものは、篠竹を30センチに切ったもの15本、8号のテグス、10号のセイゴ鈎、付け餌はオケラかミミズです。

 当時私の住んでいた所は、どこの家の裏も食べる野菜を作っていましたし、道を一本入れば畑が広がっており、残飯や野菜クズ、草などを溜めて堆肥を作る「掃き溜め」 がいたるところにありました。

 山や里に木の実などの餌がなくなると百舌鳥やアカハラがこの掃き溜めで餌を漁ります。

 この習性に目を付けたのが「百舌鳥釣り」です。
 鈎を40cmのハリスに結び、ハリスを篠竹に結んで準備完了。
 掃き溜めをひっくり返し、オケラやミミズを鈎に付け、掃き溜めの周辺に3〜5本差込みます。
 それを数箇所でやり、毎朝通学前と夕方に見て歩きます。
 数日に1羽程度ですが、百舌鳥やアカハラが釣れるんです。

 豚肉でさえ中々買えなかった当時ですから、おふくろが丁寧に捌いて、甘辛く焼いてくれて食べたものです。両親に兄弟が4人でしたから、1羽を3人で食べ、有り付けなかった者は次の獲物を待ちます。
 これが、けっこうな楽しみでご馳走でした。

 最近は掃き溜めもなくなっていますし、そんなことしたら愛鳥家から非難されそうですね!
 もうひとつの「陸っぱり!」を紹介しました。
 釣鈎で鳥を獲る狩猟は今では全面的に禁止されています。 (2004年2月)

  画像出典:  鳥類辞典


      

ゴミで汚された釣り場


第8話 きれいなまま、次の世代に!

    きれいなまま、次の世代に!
 きれいな海、清らかな川、安らぎの湖畔を次の世代に!

 近年、海や川といった自然の中で癒されながら過ごそうという自然派、ナチュラリストが増えています。
 釣り、サーフィン、散策などを楽しむ人が増えるとともに、地元や漁師とのトラブルも増え続けています。

[駐車場所]
 漁船が荷捌き所に水揚げする場所への駐車、漁具・漁網を格納してある倉庫前への駐車、民家の庭先や玄関前への駐車、農作業用車両の駐車スペースへの駐車、砂浜への乗り入れ等々自分さえ良ければという困った人達も増えています。

[漁業妨害]
 漁船が帰港し、荷捌き所に接岸しようとしても竿を片付けようとしない釣り人、伊勢海老漁の刺し網を投入しようとしても妨害する釣り人、魚網を引き上げて放置する釣り人、生簀から伊勢海老やアワビ等を盗んで持ち帰る人、漁業権の対象となっている魚貝類を密猟するなどの困った人達がいます。

[ゴミ問題]
 防波堤、砂浜、川岸、湖畔どこもかしこも、放置されたゴミが問題となっている。  釣り、サーフィン、散策を楽しむ人はその時しか関わりはないのだけれど、地元の人たちや漁師にとっては毎日、毎日、ゴミの山、そこから発する悪臭に直面しています。

<自治体への提案>
 そこで、提案したいのは、自治体は、観光協会や漁師会と協力して駐車場を整備していただきたいこと。
 もちろん整理や管理に必要な経費として、一定の料金を徴収されたいこと。

 また、駐車場と釣り場の間には、トイレと分別ゴミ箱を設置し、自治体で回収いただきたいこと。

 もちろん、持ち帰ることが基本であることは承知していますが、なかなか実行できないのも事実であり、それが放置の原因にもなっていると思うからです。

<釣り人等への提案>
 釣り人やサーファー個々が、釣り場にゴミになるものを持ち込まないとか自分のゴミ以外も一緒に持ち帰ることをされていると思いますが、もう少し積極的に関わる時期に来ていると思います。

 そこで提案ですが、毎週の土日、昼食後の1時間を清掃時間として、全国津々浦々の防波堤、海岸、河川敷き、湖畔等の清掃活動を行ったらいかがでしょうか。
集めたゴミは分別ゴミ箱まで運んでいただき、自治体に処理していただきます。


<釣り団体、釣振興団体、遊漁船団体への提案>
 各団体が、ゴミ等環境問題に取り組まれていますが、それを大規模に、誰もが参加できる形で効果的に実行できるよう、広報などの支援をお願いしたいと思います。

 自然を愛する私達、自治体、漁師さんそれぞれが、きれいな海を川を湖畔を次の世代に引継ぐ共同の責任を負っているのではないでしょうか。 (2004年3月)


   











現在の茶屋坂


第9話 実録 目黒の秋刀魚!

       実録 目黒の秋刀魚!
 江戸時代初期の頃も、庶民の秋の味覚の代表は秋刀魚だったようです。

 そんなところから落語「目黒の秋刀魚」はたいへんな人気だったようです。
 そのあらすじは、
 目黒の不動様の参拝を兼ねて、鷹狩りに出掛けた三代将軍 徳川家光。
 年若い家光はお昼も食べずに駆け回っていたのですっかり腹が減ってしまいました。
 とは言っても、家来は駆け回っていたのでもっと腹を減らしていたでしょうけど。
 すると近所の百姓家から、秋刀魚を焼く香りがして来ましたので、
 「この良い匂いは何じゃ」と家光が家来に聞きますと、家来が

「恐れながらお殿様には御存じない、下々が秋刀魚と申す魚にございます。」と言いますが、先程にも増して、良い匂いが空腹の家光の鼻孔をくすぐります。

 すっかりその秋刀魚が食べたくなった家光、家来達が「殿の召し上がるような魚ではありません」
と言うのを聞かず、「苦しゅうない。求めて参れ」と無理を言って、旬の脂の乗った秋刀魚を食べてしまいました。

 それから、その殿様は、秋刀魚の味が忘れられず、いつも自分の食べている鯛の尾頭付きなんてのより秋刀魚が食べたくてしょうがありません。
 江戸城でも、諸候に秋刀魚の話をしたりと、大変な惚れ込み様です。

 これを聞いたある大名が、自分もその秋刀魚を食べたいので、是非一緒にと、三代将軍家光を屋敷に招き、秋刀魚も房州(現在の千葉県)から生きの良い秋刀魚を取り寄せますが、肝心の料理番が秋刀魚なんて言う脂の強い魚は、殿様には毒と蒸して脂気をすっかり抜いた秋刀魚を出してしまいます。

 期待いっぱいに、秋刀魚にかじり付いた家光と招いた大名は、余りの味の悪さに吃驚し、家光が
 「この秋刀魚はどこの秋刀魚だ」
と尋ねますので、招いた方の大名の家来が、「この秋刀魚は房州で今朝取れたばかりの生きの良い物にございます」と答えます。

 すると家光曰く、「この秋刀魚は房州だから不味い、秋刀魚は目黒に限る」と言ったのがこの落語の落ちです。

 この話は実録だそうで、昭和29年1月の毎日新聞に次のような記事が掲載されているとか。

 場面は、現在の目黒区目黒二丁目付近で集落は14戸
 焼きたての秋刀魚を差し出したのは、彦四郎爺さんというお百姓さん
 新聞掲載当時の当主は、彦四郎爺さんから11代めの島村金一さん
 その島村家には「将軍休息の図」と「将軍御成之節記録覚」が家宝として残されているそうだ。


目黒区教育委員会から
  ”茶屋坂と爺々が茶屋”の説明板(目黒区三田2−12−14)より
 茶屋坂は江戸時代に江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良い所であった。
 この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、三代将軍家光や八代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。

 家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれて広重の絵にも見えている。
 以来将軍が目黒筋へお成りの時には立ち寄って銀一枚を与えるのが例であったという。
 また、十代将軍家治が立ち寄ったときには団子と田楽を作って差し上げたと古文書にも書き残されている。
 こんな事から「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。

    平成3年3月  目黒区教育委員会(2004年3月)

歴史を訪ねて「目黒の秋刀魚」(目黒区役所HPへジャンプします)

落語「目黒の秋刀魚」(江戸料理百選にジャンプします)
  「目黒の秋刀魚」は、噺家さんによって主人公のお殿様が入れ替わります。


   





























































































































































































第10話 釣鈎の話

    [釣鈎の話 その1]

 釣ばりの漢字表記はいろいろありますが、どれが正しいのか調べているうちにこんなことがわかりました。

 昔ばなしに「うみひこ やまひこ」があり、この物語に釣針が出てきます。
 歴史を紐解きますと、縄文時代の遺跡から鯛の骨などとともに鹿の角で作られた釣針も数多く出土しています。

 釣鈎メーカーの所在地を調べてみると、そのほとんどが兵庫県の播州地方に集中していました。
 業者のほとんどは、兵庫県釣針協同組合か播州釣針協同組合に所属しており、そのシェアは約9割とのことです。

 ここに書き込んでいる釣針の歴史は、兵庫県釣針協同組合ホームページからの転載であることをおことわりしておきます。

1 播州地方における釣針のはじまり
 播州地方における釣針のはじまりは、天保のはじめ頃に加東郡池田村(現小野市池田町)の源右衛門が京都から技法を持ち帰ったとか、多可郡上比延村(現西脇市上比延町)の新兵衛(生田氏)が弘化年間に京都で習得したとか!、最も確かであるのは、加東郡下久米村(現社町下久米)の彦兵衛(小寺氏)が、土佐でその技術を学び帰郷して始めたという説である。

 確定はできないが、初期のころの釣針の材料は三木の金物の屑や残材が小野に入り、家庭刃物や鎌に使用され、さらにまたその残りが釣針製造に使用されたとある。
 あまりにも話ができすぎているであろうか。とにかくこの伝承は、これらの金物産地がかなり密接なつながりを持っていたことを示していると思われる。

 播州釣針の濫觴は、嘉永4年(1851年)に下久米村の彦兵衛(小寺氏)が土佐よりその技術を持ち帰ったときとされている。
 しかし、北播磨へ釣針製造の技術が導入されたことについては、まだまだ不明な点が多い。
 彦兵衛以前にも、天保頃多可郡岡村(現黒田庄町岡)に定右兵衛という釣針師がいて、弘化元年(1844年)頃には上比延村の新兵衛が京都で学んだ鮎懸針の製造を始めたという。
 また、池田村の源右衛門が天保年間に始めたとも伝える。
 さらに、多可郡の行商人中島屋卯兵衛の「当座帳」(天保〜嘉永)にも、各種の釣針を福地村武兵衛・津万井文三郎・下比延村茂助(いずれも多可郡)から仕入れたとしている。

2 技術習得の苦闘と開発(浸炭焼き入れ)
 彦兵衛の新しい釣針技術を求めての旅立ちについて諸説がある。『加東郡史』(大正12年刊)は次のように記している。
 天保13年(1842年)3月、土佐釣針の技法を知ろうと家族と水杯を交わして別れ、土佐の高知に着いた。しかし教えてくれる者がなかったので、偽って四国霊場巡拝者となって数年、釣針職人太田某と知り合い、その下男として住み込んだ。

 仕えること3年、日夜忠勤を励んだのでその製法を授けられ、奥義を極めることができた。土佐にあること前後10年、その初志を達成して故郷へ帰ってきた。嘉永4年11月のことという。

 さらに、小西勝次郎によると、天保元年(1830年)加東郡下久米村庄屋小寺彦兵衛が30歳で土佐へ行き、鍛冶屋高助方で釣針の製造を研究、嘉永4年に帰郷して製造し始めたのが濫觴である。爾来、20数人の門人を養成したので下久米村を中心に他村・他郷に拡がったという。

 しかし、この地方へ釣針技術をもたらせたのは、彦兵衛系だけでなく、池田村の源右衛門―岸本勘助の系統も考えられる。この地方への釣針は、いろいろな系統のものが導入されたことは確かである。
 しかしそれらの釣針は「京針」とよばれる遊漁用のものであった。これに満足できなかった彦兵衛は、漁業用の土佐針の技術を習得すべく四国におもむき、苦心して土佐丹吉針の製造法を身につけて帰郷、企業としての釣針の製造に成功したとする。

 一方特殊技術の伝授をなかなか許可をしてもらえなかったのは、どの地方でもいつの時代でもかわらない。それこそ苦労に苦労重ねたが奥義まで教えてもらえなかったのだろう。
 そのため、帰郷して製造を始めたが、肝心の「焼き入れ」のコツがどうしてもつかめず、失敗を重ね続けた。

 ところが、ふとしたことから下久米村鹿野に住む野鍛冶の指唆で壷の中へ炭を入れて焼いたところ、みごとに成功したという。
 こうして彦兵衛念願の播州釣針の製造が軌道にのったのであった。職祖彦兵衛の周年と努力は、永久に忘れてはならないのである。

 彦兵衛の釣針工程は、次のようなものであったと考えられる。
 鉄材を金槌で打って線材を作る→鋏で切る→尖らせる→鑢でイケを起こす→型にはめて手で折り曲げる→尻付け→焼き入れ・焼き戻す。

3 播州地方への広まり
 嘉永4年(1851年)に帰郷した彦兵衛は、工夫を重ねつつ釣針の製造に励んだ。
 彦兵衛の偉大さは、技法を秘密にせず弟子にはもちろん同業者にも公開したことである。
 これが、北播磨での釣針産業が発展する最大の要因である。
 『加東郡史』では、「爾来専心斯の発達に留意し、弟子を四方に求めて業を授くるに吝ならさりしかば、その製造忽ちにして遠方に普及し、播磨丹波は勿論丹後三備の地方に拡がれり」
 つまり広く弟子を募って自分の習得し工夫した技法を公開、快く新式方式を教えたのであった。
 そのため、彦兵衛から習って釣針職を始めるものが、播磨・丹波は勿論岡山県方面まで広がったというのである。けだし、彦兵衛が釣針製造の職祖と称されるゆえんはここにある。



[釣鈎の話 その2]
1 久米谷の下久米村
 彦兵衛が生まれ育った下久米村は、いわゆる久米村のほぼ中央に位置し、南と北に低い丘陵が横たわっている。
明治以降は、久米・下久米・上久米・池之内・廻渕・畑の6集落で米田村に属したが現在は社町の一集落で、大昔は藤田池と称する池沼の底であったとの伝承をもつ小盆地である。
 また、近世までは久米庄とか久米谷とかよばれていた。近世末頃から良質の酒米(山田錦)を生産した肥沃な土地である。

2 家系についての疑義
 彦兵衛の家系については、その子孫家保管の「小寺家過去帳」に「父三良右衛門」(天保11年没)、「祖父三右衛門」(嘉永5年没)と記されている。
 両人とも行年が記載されていないので、今かりに23歳で子供を持ったとしてその略年譜を考えると、父三良右衛門はさておき、祖父三右衛門は不自然さがつきまとう。
 すなわち、23歳で長男(三良右衛門)をもうけたとして、三右衛門の生年は宝暦4年である。とすると、嘉永5年まで実に98歳以上生きたことになる。
全く考えられないことではないが、かなりの疑問が残る。

 安政5年の「下久米村田畑屋名寄帳」には、彦兵衛のすぐ前に「三右衛門」という田畑所有者が記載されていることから彦兵衛と三右衛門は別家と考えられ、一方この両家が下久米村分の最後尾にのせられ、ほぼ近いところに田畑を所有していたところから、彦兵衛は三右衛門の分家であり、過去帳の祖父三右衛門は、むしろ彦兵衛の父三良右衛門の従兄弟あるいは再従兄弟と見たほうがよいようである。

3 彦兵衛の田畑の譲渡
 ここでは「下久米村田畑屋舗名寄帳」(安政5年)に見られる「書きこみ」についてふれておきたい。
 この書きこみは、安政5年以後の田畑の異動についてのものである。
当時の同家の持高は田16枚と畑1枚で1町8畝6歩である。これが安政7年から明治2年(1860〜1869)の約10年間に、ほとんどを村内の百姓に譲渡してしまったのである。
その時残ったのは1反1畝15歩の1枚だけである。

 この記載は、おそらくは釣針の工夫に物心ともに入れあげ、その結果、家財のほとんどを失った結果かと思われる。
大塩久男氏の「彦兵衛さんは、わが家の男衆(かかりうど)であった」との伝承は、家産を釣針探求のために蕩尽した彦兵衛が、晩年を愛弟子作平の世話になって過ごしたことを意味するものであろう。

 また、領主三草藩の追捕をのがれて、数ヵ月もの間、大塩家の長持に隠れていたとの言い伝えも、借金取りをかわす苦肉の策とも見られる。
 家産を傾け、寝食を忘れてまでも釣針の改良に打ち込んだ彦兵衛の業績は、まことに偉大なものであった。

 彦兵衛の直系にあたる長浜はつえさんや浄泉寺の住職は「彦兵衛さんは、ほとんど家に居つかず、何年も帰ってこず、死んだのかと思ったらひょっこり帰ってくるようなことが多かったと聞いている。」と語る。

 これらの話を総合してみると、土佐から技術をもち帰った後も、あちらこちらと産地を訪ね歩き、自らの製法に絶えず改良を重ねていたと思われる。
 それゆえ、留守を守る妻のおつただけでは田畑を守り切れず、また旅費としても売却せざるを得なかったのであろう。

 そしてまた、画像にも描かれているように、生来の酒好きであった。
こうしたことが重なって、明治初年頃には、ほとんどの田畑が人手に渡ってしまったのであろう。彦兵衛は、釣針のためにすべてを投げ捨てた人というべきである。



[釣鈎の話 その3]
1 戦時中の釣針業界
 明治3年に彦兵衛は没したが、彼が播いだ釣針製造の芽は大きく成長した。
すなわち育成した弟子たちも大きく成長し、それぞれに多くの弟子(職人)を養ったので、製造の裾野がしっかりと拡がったのである。
 それゆえ、加東郡と多可郡を中心に、播州釣針の生産地としての基礎を固めることができたのである。

 しかし、明治維新という急激な近代化の余波を受けて、加東郡内での生産地はかなり変動する。
 慶応2年(1866年)では社地区が圧倒的に多かったが、明治期にはいると久米谷を除いてほとどんが廃業した。

 それに対して東条谷は7業者に過ぎなかったのが急に増加する。
播州釣針の発祥地の一つとされる旧下東条村の池田を中心に、旧中東条村のほとんど旧上東条村の一部まで拡がり、東条谷が播州釣針製造の中心となるのである。

 しかし、製造の工程は彦兵衛の頃とほとんど変わらず、明治40年頃までは1本ずつヤスリで摺りこむまったくの手仕事であり、一人が造る1日の量はわずか1000本程度であった。
この遅々とした作業能率にあきたらなかったあせりが機械化へのきっかけとなる。

2 技術革新
 この時期で留意すべきことは、「錫鍍金法」の開発である。
 鉄針に錫を鍍金したもの「銀掛針」の完成、ときに明治15年のことである。強いてはこれが播州釣針の位置を不動のものとし、大正期に入ると、銀掛専門の鍍金工場が出現する。
 またテグス付釣針を考案したのもこの頃である。

 明治40年頃から大正初期にかけては、急速な機械化により大量生産の時代に移り変わろうとした。
 明治42年には「藤原式イケ起機」の発明により、1人1日10,000本以上の製造が可能となった。
 ついで明治45年には、「釣針用尖頭機」や「形曲機」の開発により、1人1日30,000本の製造と近代化が進んだ。

 大正から昭和のはじめは、製造工程の機械化が進み播州釣針の充実期といえる。
機械の改良が進み、昭和22年の「藤原式尻付機」の完成で、全工程を一貫して機械化、1日15万本の尻付が可能になったという。

 一方、大正10年には、馬の尻尾の毛や麻糸・木綿糸などを使っていた「糸」に代わり、「人造テグス」の製造技術が導入された。
 昭和28年より現在のナイロンテグスとなり、釣具業界に大革命をもたらせた。

 第一次世界大戦前後に組合組織を導入、資材の確保や生産の合理化、販売の協定などで体制作りを試みた。しかし、続く戦争での資材不足は深刻極まりなく生産量はますます低下した。
 また、昭和20年小寺家の子孫の最後の子息が戦死、名誉ある小寺家の名跡をも絶えさせた。  

3 釣針の販売と家庭内職
 彦兵衛が苦心して作りあげた製造・販売の組織は、幕末頃には既に崩壊していた。
 「釣屋は一匹狼やから……」という古老の言葉のように、三木や小野に見られる産元問屋的なものはあまり育たなかったようである。
 したがって近世頃は行商人に委託したり業者自身が販売を開拓し売りさばいていたらしい。

 大正5年、第一次世界大戦の影響で神戸の商社より注文が舞い込んだことが輸出(海外進出)のきっかけとなる。
 当時の注文は銀色メッキ釣針10種、数量1箱10種類取り合わせ40万本入りを15箱と記されている。

 当時の釣針製造における家庭内職の占める割合は大きかった。かつて手作業の頃は、尖頭から成型・イケ起こしなどほとんどは下請的内職に依存していた。
 しかし、製造の機械化とともに仕上げの手作業の分野のみ限定されるようになった。
 いわゆる糸結び、仕掛加工、包装の工程である。この内職も昭和40年代頃までは、東条町を中心とした近郊市町で多数の家庭的内職によって産地が形成されていた。
 しかしながら、50年代の終わり頃からこの工程の自動化、機械化が急速に進み、また、加工賃の急騰に耐えかねた業者が海外に工場を移し、手作業分野を発展途上国に求めたため、現在では家庭内職は一部の特殊なものを除いてほとんどなくなってしまっている。



[釣鈎の話 最終回]
1 太平洋戦争後の播州釣針
 昭和20年8月終戦と同時に政府は、「金融措置令」や復興支援のため「傾斜生産方式」などを採用した。
 当時の業界指導者は、今後の日本経済の動向を十分に洞察、いちはやく釣針製造業者の再編と品質向上にたちあがった。
 そして昭和22年3月に業界の組織化と品質管理を目的とした播州釣鉤工業協同組合を結成、これが現組合の前身となる。
 ちょうどこの年、「制限付民間貿易」の許可により海外から原材料が入るようになり、釣針業界はにわかに活気づいたのである。

2 戦後から高度経済成長期
 昭和24年、焼き入れ行程に電気炉・重油炉が導入され、電気鍍金が採用された。
 こうした技術の近代化は、昭和25年の朝鮮戦争による特需景気の後押しでさらに伸張していった。

 昭和25年、「組合法施行法」により団結と品質の向上を図るため、「兵庫県釣針協同組合」が結成された。
 しかし、朝鮮戦争が休戦となり特需景気は急速に下降、売らんが為の値引価格競争が極限にまで達した。
 そこで業界の沈没を回避するため昭和28年8月に「改定価格表」を作成、組合員に厳守させた。
 輸出用商品も同様で、商品の厳格な検査を実施するとともに品質の徹底的な改善を計るとし、「輸出向釣針協定価格」を通産省へ提出、それが許可されたのが昭和29年3月のことである。

 また、昭和31年には「工業標準化法」が制定され15業者が申請、2年余りにわたる厳しい審査を経て、昭和33〜35年にかけて13業者に「JISマーク」(日本工業規格)が許可された。
 これにより播州釣針のすぐれた品質は保証され、国内外の信頼が倍増する事となった。

3 高度経済成長期から現在
 昭和30年前後の業界は、生産の機械化の進歩と協定価格の設定などによって表面的には順調な伸びを示していたが、その影には中小企業としての悩みが深刻化しつつあった。
この頃の釣針業界の現況を当時のリーダーの一人は、次のように記している。

 「兵庫県釣針協同組合は加東郡を中心に68業者で結成、全国生産の80%以上を占めるに至った。
 また国内需要40%に対し輸出60%以上の進展を示し、需要量が生産量を上回る好況ぶりである。
 特に最近、県下の特殊産業品目に指定され、生産地として磐石の位置を固めつつある。しかしながら、近時は都市大工場が急速に拡大、それに比してわれわれ中小企業は深刻な打撃を蒙りつつある。
 その原因は、資金の裏付不足、設備の貧困、人手不足の3点にある。特に最近は新規学卒者はめったに得られない現状である。

 かって釣針業界は経済界の直接的な影響が比較的少なく、不況に強い産業と見られていた。
 しかし、バブル崩壊後は、それも昔日の夢と化してしまった。業界をあげて涙ぐましい経営努力をかさねつつ、生き残りを模索してきたが、その具体的な方策は他の生産業界と同様に工場の海外移転であった。
 生産コストの切り下げ、特に高騰を続ける人件費の抑制は、それ以外に方法がなかったのである。

 現在では、手作業を必要とするレジャー関係釣具加工の90%以上は海外工場に頼っている。
 この海外移転は、昭和40年代から50年代へかけては韓国・台湾が主であったが、昭和60年代頃からは中国・タイ、そして平成5年以降からはベトナムが主力となりつつある。
 当初海外工場の建設は地元資本との合弁の形でしか許可されなかったが、今では日本の単独の工場も多くなった。

 現在、組合員たちが製造する製品の数は、用途・形・サイズの面から見て約3,000種類、それに色彩を組み合わせると15,000種以上だという。
 そして、かっては圧倒的に多かった漁業用の釣針が激減し、レジャー・遊漁用が主となり、その比率は2対8という。また、輸出用と国内用は7対3、輸出先は世界各地である。

 世界の主要メーカーは、ノルウェー・フランス・アメリカなどで、特にノルウェーはマスタッド社であるが、伝統にものをいわせて世界市場の何割かを占める。
 しかし、大形針は日本製が優位を保っているという。

 なお、アジアでは韓国に大手1社、中小2社があって、比較的安価な釣針を売り出している。中華人民共和国でも30社が誕生、生産量のピッチを上げている。


  播州釣針協同組合所属の主なメーカー
   螢ーナーばり
   螢ツイチ
   蠅まかつ
   龍王鈎本舗
   蠅気気畤
   蠅泙襪佞
   ガッツ鈎
   小山毛鈎製作所
   蟾潮鉤

  兵庫県釣針協同組合所属の主なメーカー
   螢┘咼
   蟆ΥЭ頬槓
   蠕遒擦濘
   はり秀
   森源釣漁具
   金龍鈎                (2004年3月)



  

オキアミ



オキアミ



イサダの水揚げ



アミエビ(イサダ)


第11話 オキアミの話

          オキアミの話し

 オキアミって聞いたとき、釣り師は釣り餌としての「ナンキョクオキアミ」が目に浮かぶのではないでしょうか。

 南極大陸周辺に生息し、約10億トンの資源量を持つといわれ、最大で5〜6cmになるこの「ナンキョクオキアミ」は、学問上は甲殻類上綱、軟甲綱、真軟甲亜綱、ホンエビ上目、オキアミ目と分類され、冷水系・暖水系合せて85種類が確認されている動物プランクトンの仲間です。エビによく似ていますよねー。

 鯨類、アシカ、イカなどの餌になることはよく知られていますし、先日もBSで一帯を覆い尽くすほどの映像が放映されておりました。

 現在、我が国では年間7〜8万トンが消費され、その60%が釣り餌だそうです。その他では養殖魚の餌、えびせんやえびあられ等の食用、熱帯魚や金魚の餌などに消費されます。 釣り餌として導入されたのは今から27〜8年前で、高タンパク質の抜群の集魚力と釣果で付け餌や撒き餌として爆発的に拡がりました。

 オキアミが持つ消化酵素で黒変するのが難点ですが、ボイルすることである程度防げますし、餌持ちもよくなります。

   また、「アミエビ」としてコマセ用に売られているのは、初冬から3月末頃まで三陸沖で漁獲される体長15mm前後の「ツノナシオキアミ」(イサダ)で、年間3万トン程が水揚げされています。

 こちらも冷水系で、さけ・ます類、たら類、秋刀魚、サバ、カツオ等の主要な餌となっています。

   「ツノナシオキアミ」は、遊漁用の撒餌や養殖魚の餌が殆んどで、ごく一部が食用として消費されています。
 銚子から太平洋岸をのぼっていくと海産物やみやげ物を扱う店で「小エビ」として乾燥された「ツノナシオキアミ」が売られています。
 こちらは小さいという利点から、えびせん、タコヤキ、お好み焼き、ふりかけ、かき揚、佃煮のほか白菜キムチの食材としても知られています。
 商品名に乾燥オキアミって書かれてますが、食欲が湧きません。「三陸産イサダ」って書かれていれば、もっと売れそうに思います。

 高タンパク質で集魚力が高いのはナンキョクオキアミと同じですが、共通した欠点は腐敗した時の強烈な悪臭です。
 夏場は車内に放置したりせずに、帰宅後速やかに冷凍し、バッカンなどはよく水洗いしましょう。(2004年2月)



   


第12話 活け〆の奨め!

     活け〆の奨め!

 自分で釣った新鮮な魚を美味しくいただくのは釣り人にとっての特権ですね!
 そのためには、新鮮なまま持ち帰ることが必要条件となります。

 全ての動物は、生活のエネルギーとしてATPという酵素に似た物質を利用しています。
 このATPを利用して代謝が行われたとき、肉の旨みの素である「イノシン酸」が生まれます。
 魚が死ぬとATPの供給が止まって、死後硬直がはじまり、一時的にイノシン酸の供給が増加します。
 このときが、魚が最も美味しくなる食べ頃なんです。

 魚の種類や大きさによってこの時間が異なりますが、マダイやヒラメのように大型の白身魚ほど遅く、逆にイワシやサバのように小型の青魚ほどはやくなります。

 活け〆はどういう意味があるのでしょうか。
 死ぬときに苦しんで暴れまわった魚はエネルギーをたくさん消費し、結果として筋肉に乳酸が溜まり、鮮度が急速に落ちて味が悪くなるんだそうです。
 活け〆は、釣り上げた魚の延髄に刃物を入れて暴れないうちに死なせて、鮮度の低下を防ぐために行います。

 ただし、アジ、シロギス、イワシなどの小魚は、氷水に入れることで急激に呼吸が止まり、鮮度が保てます。
 なお、25センチ以上の大アジは、釣り上げたらエラと内蔵を取ってから、クーラーに入れた方がより鮮度が保てます。
 釣り上げたアジを水汲みバケツに放置して、酸欠により暴れて口を開けたまま死なせたのでは、食味が落ちてしまいます。氷水での活け〆をお忘れなく!

 魚も鳥や哺乳類と同様に苦しみもがきながら死んだものは、乳酸による老化・酸化作用により不味いそうですよ。 (2004年3月)


   

アオリイカ





ヤリイカ


第13話 烏賊の話

    [烏賊はどうして烏(カラス)の賊(ぞく)か]  歌謡曲「船歌」の一節「肴は炙った烏賊でいい〜♪」

 一夜干の烏賊を炙って、からしマヨで食べると日本酒によく合います。ただしワシは温めの燗 より常温が好きです。

 腹をペッコペコに減らしたカラスが食い物を探して海の上を飛んでいると、海面に死んでいるような白っぽい烏賊が漂っていました。

 「餌、メッケ!」って急降下して両足に掴もうとした瞬間、烏賊の十本の足がカラスを掴んで海に引き釣り込んだという中国の故事があります。

 鳥(カラス)を食ってしまう賊(ぞく=悪者)から、烏賊と書くようになったってことが、『和名類聚抄』という古い本に書いてあるそうです。

 死んだ烏賊なのにって!アオリイカとかコブジメは環境により色をかえることは良く知られていますよね!

 ついでに「あたりめ」の起源は、スルメイカの「擦る目」が財産を擦り減らすことにつながり、縁起が悪いから「当り目」と縁起を担いだのです。果物の梨を「有の実」って言いますがこれも縁起を担いだものです。

 尻焼け烏賊(シリヤケイカ)は、コウイカ科のシリヤケイカ属に属し、甲イカ(スミイカ)に近い種類です。
 茶褐色の分泌液が火焔状に広がり尻が焼けているように見えることからこの名前が付きました。

 甲イカは内湾だけに生息していますが、尻焼けイカは外海にも生息し、数年に一度大発生します。

 鴨川の定置網にも入りますし、飯岡漁港堤防から陸ッパリで釣れるのも大発生した時なのだと思います。

 甲イカと同じように、お刺身か一夜干、里芋との煮付けが美味しいんですが、身はやや軟らかく、アオリイカやスミイカは一日たってからの方が美味しいのですが、シリヤケイカは釣った当日でもいけます。

 獲れる時期もほぼ同じですが、市場での評価は低いので、安く入手できればたくさん食べたいさかな(?)です。一般の小売り商品として流通はほとんどしないらしいですよ。


[烏賊はどうしてイカなのか?]
 頭(実は胴)といい、10本の手(足かも)といい、実に厳しい(イカめしい)体つきをしてい ることが語源のようですよ。
 これも何とかって云う辞書のような古い書物に出ているそうです。

 五月の連休前後には、アカイカやアオリイカも姿を見せるでしょう。(2004年3月)

  画像出典:  「釣りフォーラム」 WEB魚図鑑


   


第14話 アジの話

   アジの話

 漢字では、「魚」に「参」と書きます。これは、旧暦の3月頃から釣期に入るのでこの字になったという説もありますが、なんと言っても 「味」が良いのが魚名の由縁ではないでしょうか!?

 江戸時代に編纂された『本朝食艦』にも「味わいが甚だ香美で、最も炙食(やきもの)に良い。」「どの品類より絶勝(すぐれて)いる。」などと記されて、その味の良さが絶賛されています。

 アジは大衆魚の王様で、一年中釣れ、釣り人にも人気が高いのですが、外房方面では晩夏から初冬までが脂が乗っていて一番美味しいと言われています。

 「刺身」、「たたき」、「煮つけ」、「塩焼き」、「開き」などどんな方法でもおいしく食べられるのがアジの人気の1つ。

 栄養価も高く、血液中のコレステロールを低下させ、動脈硬化などの予防に効果があるEPA(エイコサペンタエン酸)、DHA(ドコサヘキサエン酸)などの不飽和脂肪酸やタンパク質、ビタミン類が含まれています。

 国内におけるアジの漁獲量は年間約25万トンで、主に「まき網漁業」や「定置網」で漁獲されていますが、「関アジ」のように1匹1匹丁寧に手釣りしてブランド化に成功した例もあります。

 釣り場でお逢いした方が、アジを煮魚にしても味が染み込まなくて美味しくないっていってましたが、よく聞くと皮を剥かないで煮ていたようです。

 アジの煮付けは皮を剥くことと刻みショウガを一緒に煮ることをお忘れなく!
 ちなみに、「鯖の味噌煮」は梅干と一緒に煮付けると美味しいですよ!(2004年3月)


   







  アカメフグ




















  トラフグ


第15話 河豚の話!

    [河豚の毒には免疫性がない!]

 麻疹(はしか)やインフルエンザは免疫性があり、予防注射が一般的に行われています。

 さて、「河豚を食う無分別、河豚を食わぬ無分別」とか「河豚は食いたし、命は惜しし」のことわざがあるように、昔から河豚を食べるのは命がけでした。

 私が生まれ育った漁師町でも、河豚を調理して食べた漁師さんが中毒で亡くなるなど、事故は後をたちません。

 河豚の毒は、テトロドトキシンといわれるもので、無味、無臭、無色です。  しかし、その毒性は青酸カリの13倍という猛毒なもので、僅か0.5mgで体重50kgの人の致死量に値する恐ろしいものです。

 また、この河豚の毒は、煮ても分解されず、酸にも強く、今のところ決め手となる解毒剤はありません。

 河豚中毒に気付くのは真夜中や就寝中で、毒の吸収も早いので手遅れになることが多いようです。明治19年からの衛生統計で、毎年食中毒による死亡原因のトップを占めてきました。

 中毒の症状は、食後30分ほどして、口の周り、舌、指先が痺れてきます。そのうちに手足が動かなくなり、声が出ない、呼吸困難、血圧の低下などが起きます。

 河豚を食べないのが一番の対策ですが、河豚は食べても肝など毒性の強い部分は食べないことです。

 症状が現れたらすぐに吐かせて水を大量に飲ませて吐かせることを繰り返し、胃の中を空っぽにして食塩重曹湯(100ccの湯に食塩を小匙1/2杯、重曹を小匙1/4杯)をコップに2〜3杯飲ませて救急車を待ちます。

 実際にあった話だそうですが、ある調理師が、酒は飲むほどに強くなるから、河豚の毒も少しずつ毎日食べれば免疫性ができるだろうと実行したところ、致死量に至ったところで中毒死したそうです。河豚の毒には免疫性がないことを肝に銘じておきたいものです。

 河豚は、専門の調理師が調理したものをいただくのが一番ですね。



[ふぐはなぜ河の豚と書くのか!]

 ところで、河豚はなぜ河の豚なんでしょうか?
 河豚は中国の大河に棲んでいたのです。そしてその鳴き声は「ブーブー」と豚に似ていたために河の豚になったのです。

 日本の川には河豚はいませんので「海豚」にしようにもイルカが既におりましたので、日本でも「河豚」と書くようになったということのようです。(2004年3月)

  画像出典:  「釣りフォーラム」 WEB魚図鑑


第16話 焼き魚の上手な食べ方!

    焼き魚の上手な食べ方!

 釣り好きは魚の食べ方が上手だといいますが、本当でしょうか。
 焼き魚の食べ方にもマナーがあります。

 小鯛やメバルなど、尾頭つきの焼き魚を美味しく、見た目もきれいに食べるためのポイントは、魚をひっくり返さずに食べること。この方法をしっかり身に付けましょう。

 焼き魚が出されたら、指で頭を軽くおさえながら、箸で背側と腹側を何ヶ所か強く押さえると、身と骨が離れて食べやすくなります。

 上側の身を食べ終わったら、頭と尾がついたままの中骨を尾の方から持ち上げて中骨だけを取り除き、皿の向こう側に置きます。

 下側の身を食べ終わったら、見苦しくないように、頭、骨、ワタなどを皿の一ヶ所にまとめておきます。このとき、頭と中骨は姿勢を正し、ワタ、小骨、皮などをその上に置くようにすると見た目も良くなります。
 美味しく食べて、食べ散らかさないことがマナーなんですね。

 ひっくり返さず、中骨の間に箸を入れて下側の身をほじくるように食べることを「すかし箸」といい、魚の食べ方としては最悪のマナー違反です。

 釣り好きの貴方、焼き魚を食べるとき是非実行してください。(2004年3月)


   


第17話 「お刺身」と「お造り」

     「お刺身」と「お造り」 

 関東ではお刺身といい、関西ではお造りといいます。
 この違いを単に丁寧語ととらえたり、京風ととらえたりしますが、いまひとつは食文化の違いという捉え方があります。

 関東のお刺身は魚を3枚に下ろして皮を引き、短冊状に切ったものがお刺身の主流です。
 これでは何の魚かわかりませんので、切り身に魚の鰭を刺しておく習慣があったことから「お刺身」と呼ぶになりました。

 一方、関西では現在の「活け造り」のように、頭を飾り、その上に薄造り、細造りなどの技巧をこらした盛り付けが好まれたことから「お造り」と呼ばれるようになったとする見方です。

 お刺身は、すし、天ぷらとともに日本料理を代表するものとして知られており、世界中で「Sashimi」で通用します。

 日本では、古くは平安時代から食べられていたようです。
 平安時代の書物「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によりますと、当時の貴族は、鮭やホヤの刺身を食べたとあります。また、室町時代になると、醤油の技法が完成し、刺身が庶民に広まりました。四方を海に囲まれている日本だからこそ、刺身文化が発達したと思われます。 

 ところで、刺身を食べることでどのようなメリットがあるのでしょうか。
 魚には、良質のタンパク質、カルシウムが多量に含まれています。また、成人病予防や血栓症予防に効果があるEPA(エイコサペンタエン酸)や、頭が良くなると言われるDHA(ドコサヘキサエン酸)を含んでいます。
 このEPAやDHAは、脂質であるため、熱を加えると油 に溶ける性質があり、イワシを焼いた場合で約1割、天ぷらの場合で約2割失われるということです。EPAやDHAは、新鮮なうちに生食するのが有効であり、刺身は、魚が持っている成分をもっとも効果的に摂取する方法といえます。

 釣り好きの皆さんはきっとお魚も大好きなのではないでしょうか。
 たくさん食べて元気な毎日を過ごしたいものですね。(2004年3月)


   




幻想の波打ち際


第18話 真夏の幻想!

 真夏の幻想!

 盛夏から初秋にかけて、外房港でよく見られる夜光虫。  カゴアジ仕掛けを投入すると、落下点で青白いガスバーナーのような、蛍光ブルーの波紋が広がることがあります。
 これが夜光虫です。

 夜光虫は原生生物の一種で植物性鞭毛虫綱オビムシ科に属し、体長は1ミリに満たない大きさで何とか肉眼で見ることができます。
 夜光虫の光は化学的反応により、体に刺激を受けて波打ち際などで発光します。

 また、外房港の奥の船溜りの夜光虫が密集しているところに石をなげると、光る水飛沫をあげたり、光の波紋をつくったりします。
 ヒットしたアジを巻上げる時に、夜光虫が付いて蛍光ブルーのアジが泳ぐところを見ることもあります。

 この時期、砂浜に打ち寄せる波が夜光虫により蛍光ブルーに染まる幻想的な砂浜をカップルで散策したらロマンチックだろうと思いますね。(2004年5月)


   




アカイカ


第19話 イカサマだー!


 餌も付けない擬餌バリで烏賊を騙して釣ることから、ばくちなどで誤魔化すことをイカサマといいます。
 「甲子夜話」という本には、烏賊の墨で証文を書くと数年後には消えてしまうことから、人を騙す行為をイカサマという。
とありますが、実験の結果では10年経つも消えなかったとのことです。

 剣先イカはどんな烏賊?
 剣先イカは和名で、地方によって呼び名が変ります。
 外房では「アカイカ」が通称です。
 東京湾内での通称は「マルイカ」船釣りではなじみです。
 イカ釣りのサイト覗いたら、沼津では「ジンドウイカ」が通称でした。

 「アカイカ」は釣り上げた時に真っ赤になるからでしょうが、ややっこしいのは房総沖から常磐沖で釣れるゴウドウイカも「アカイカ」とか「ムラサキイカ」と呼ばれて混同されてます。

 剣先イカはヤリイカより甘く、食味も良いことから、高級鮨ネタとしてアオリイカより高いですね。
 学問上は「ツツイカ目ジンドウイカ科 和名剣先イカ」です。(2004年5月)

  画像出典:  「釣りフォーラム」 WEB魚図鑑
  






   


第20話 江戸前の鮨!

 いろいろな文献を開いてみるとお鮨の歴史は結構古いようです。
魚貝を飯と一緒に漬け込んで保存し、醗酵させて魚貝だけを食べる「馴れずし」が中国から伝わってきたもので、琵琶湖産の鮒を使った滋賀県名物の「鮒寿司」は今でもその方法で漬け込んでいるようです。

 江戸時代の初期に「押しずし」が全国に広がり、中期からは「握りずし」が急速に発達し広まったようです。 

 今でも老舗ののれんが続いている深川の「松のずし」は歴史を感じさせます。

 さて、握りずしの種は、江戸前(東京湾奥)の新鮮な魚貝類が粋と気風を好む江戸っ子の口に合ったようで急速に発展し、全国に広まったようです。

 スズキ、アジ、コハダ、アナゴ、蛸、シャコ、ウニ、赤貝、アオヤギ等々の他にも浅草海苔などまさに湾奥で獲れた素材を使った江戸前の握りずし。

 でも、札幌にも、名古屋にも、大阪にも、福岡にも全国何処にでも、いやニューヨークやパリにも江戸前と書かれたお鮨屋さんののれんがありますが、種は本当に江戸前でしょうか。

 ご存知のように、都内のお鮨屋さんでも今では種の半分以上は江戸前以外のものですし、世界各国から新鮮な魚貝類が鮨ネタとして輸入されています。

 我が家でも、新鮮なアジを使った握りずしは釣行日翌日の定番メニューになりました。(2004年5月)
  


    
 
アカウミガメ


只今産卵中!


産卵場所を示す柵


海に急げ!


第21話 アカウミガメ


       浦島太郎が助けた亀はメスですか、それともオスですか?

 むかし、むかし、浦島は〜♪
 皆さんよくご存知の昔ばなし「浦島太郎」は、子供たちに苛められている亀を助け、竜宮城に行きました。
 ここで質問です!この亀はメスしょうか、それともオスでしょうか?

 7月から8月にかけて、九十九里浜から南房の砂浜に、アカウミガメが産卵のために上陸します。
 もうかれこれ10年ほど前ですが、九十九里浜の南端に当たる一宮海岸でイシモチの夜釣りをしていた時に、偶然にも上陸から産卵し海に帰るまでの感動的なドラマに遭遇しました。
 午後10時頃、私の釣座から数メートル離れた所にアカウミガメが上陸して、ゆっくり、ゆっくりと陸に向かって歩みはじめました。
 1時間程かけて海岸通りの直下に辿り着き、前足を使って穴を掘り始めました。そして、涙を流しながら真っ白いピンポン玉位の大きさの卵をひとつまたひとつと産み落としました。
 産卵が終わると、穴を上手に埋め戻し、払暁の海岸に向かって再び1時間程かけて、帰って行きました。
 その間、釣りを忘れて神秘的なドラマに見とれておりました。
 その時ほど、自然の素晴らしさに感動した時はありませんでした。

 さて、外房の漁師は、地引網に入ったり、産卵に上陸した亀を見つけると、日本酒を飲ませて海に帰しますが、この風習は、万年生きると云われる長寿の亀にあやかろうとする一種の信仰に似た思いが感じられます。

 本題に戻りますが、ウミガメはその一生を殆んど海の中で過ごし、産卵のためだけに危険を冒してまで上陸します。
 従って、浦島太郎が助けた亀はメスだと考えるのがごく自然なんです。(2004年8月)


  

 


 
シマダイ



シマアジ


第22話 イシダイの縞の話


        イシダイの縞は縦か横か

 オリンピックの長島ジャパンのユニホームは阪神タイガースと同じ縦縞です。
 さて、イシダイの若魚シマダイの縞は縦縞でしょうか、それとも横縞でしょうか?

 釣り好きの人でも、その7割は縦縞と答えるそうですが、正解は横縞なんです。
 魚類は、頭を上にして見たときの縞模様で縦縞か横縞かを判断するんだそうです。
 イシダイや熱帯魚のエンゼルフイッシュは横縞で、シマアジやイサギは縦縞、タカノハダイやイシナギは斜め縞ってことになります。

 私たちは、つい泳いでいる姿を見て縦縞か横縞かを判断してしまいますから、誤ってしまうんですネ。 (2004年8月)

  画像出典:  「釣りフォーラム」  WEB魚図鑑

  

 
   





第23話 陸っぱり追っかけアジ


        陸っぱリの追っかけアジ

 陸っぱりのアジ釣りは、1本バリのウキ釣り、サビキ釣り、カゴ釣り、トリックサビキが4大釣り技ですが、今回は追っかけアジを紹介しましょう。

 追っかけアジは飯岡から大洗の秋の船釣りが有名ですから、船釣りをされる方はご存知ですよね。
 一般的な船のアジ釣りは、走水などから湾口に出船のアンドンビシによる大アジ釣り、木更津沖や勝浦湾のコマセ釣りですが、飯岡から大洗にかけてのアジ釣りは「追っかけアジ」というスリリングな釣法が行われています。 

 アジの群れを見つけると、船長は泳ぐ方向に先回りして、コマセを使わずサビキバリとオモリだけで数釣りをさせます。
 コマセを使用しないため、常にアジの群れを追いかけ、先回りすることの繰り返しですから、実にスリリングなんですね。  日並がよければ、20〜30冂兇離▲犬イナダやカンパチを外道にクーラー満タンに釣れ、殆んどの船宿では活き海老のハナダイとリレーで出船しているようです。

 陸っぱりの追っかけアジは、サーフからの投げサビキで、外道にはワカシやショウゴが釣れます。
 サーフでイシモチを狙っていると、小アジがナブラを作り、ワカシなどに追われていることを見かけます。
 イシモチ仕掛けをコマセカゴ抜きの下オモリサビキに替えるだけの実にシンプルな仕掛けで、アジの泳いでいく先々に投入して、下オモリが底を切る程度のスピードで巻上げると15〜20僂離▲犬箜案擦離錺シ・ショウゴなどが釣れるんです。
 ハリはがまかつの魚皮サビキ8号、オモリは10〜12号で、投入時に振り切るとオモリだけ飛んでいきますので、仕掛けは多めに用意します。

 時合は朝夕のマズメ時で、サーフパンツに素足、アジの群れを追いかけてアッチヘ行ったりコッチへ行ったり、こちらの追っかけアジも実にエキサイティングな釣法です。

 陸っぱり追っかけアジは、7月から10月頃まで楽しめますので、九十九里海岸でのイシモチ釣行の際、是非試してください。(2004年8月)

  

 

   
 
カサゴ


 
アイナメ





第24話 カサゴの穴釣り


 プロフィールに書いたように、私は外房の漁師町に生まれ、6歳の頃から防波堤で木端メジナやアイナメなどを釣っていました。
 今回は思い出深いカサゴの穴釣りをご紹介します。

 オヤジが大の釣り好きで、小学校2年生の5月の大潮の時にカサゴの穴釣りに連れて行ってもらいました。
 仕掛けは、2m前後の篠竹に5号のハリス40cmを介してセイゴバリの12号を結び、イワイソメ3〜4僂鬟魯螢垢砲海上げるように付けた物を15本ずつ用意します。

 潮の引き始めた磯に出て、落石と落石の間にできた穴に次から次へと仕掛けの付いた篠竹を差し込んで行きます。
 15本全部差し終ったところで、最初の篠竹を回収します。
 するとどうでしょう、この仕掛けに20〜30cmのカサゴやアイナメが掛かっているんです。
 5分経っても釣れない穴には魚はいません。すばやく餌を付け直して次の穴に差し込みます。

 広い磯ですから、魚が潜んでいそうな穴はたくさんありましたし、潮が引くにつれて前に出ますから、帰りにはまた同じことを繰り返しながら戻ってきます。
 多い日には50尾前後も釣れた、懐かしく、また、実に楽しい釣りでした。

 最近は、そんな釣法目にしませんが、場荒れしていませんので試し釣りをしてみる価値が有りそうです。
 岩和田から大原にかけては穴釣りに良さそうな地磯が広がっていますので、皆さんもお試しあれ。 (2004年8月)


      画像出典:  「釣りフォーラム」 WEB魚図鑑
  

 
   
 
スズキ


 
右上:スズキバケ
右中:泥鰌を付けるタタキバリ
右下:鉛を鋳込んだタタキウキ
上:泥鰌を縛る赤糸


第25話 スズキのタタキ釣り(西山 徹氏の思い出)


 これもプロフィールに書きましたが、セグロイワシが接岸する11月から3月にかけて、生まれ育った外房の大波月海岸や田尻海岸ではスズキのタタキ釣りをよくやりました。

 グラス竿やスピニングリールが高価な時代でしたので、ワシたちは5.5メートル前後の竹竿を釣具店で買い、炭火で曲がりを矯正して、ガイドやリールシートを自分たちで付けて富士のタイコリールを装着して完成させます。
 ミチテトは8号、ヨリモドシを介して鉛を鋳込んだタタキウキ、更にヨリモドシを介して6号ハリス1.5メートルにタタキバリを直結し泥鰌を赤糸で2箇所固定し、セイゴバリ15号を孫バリに付けます。

 セグロイワシの群れに突っ込む波間のスズキを視認したら実釣開始です。
 できる限り遠投して、人の歩くスピードで巻いては投げ、巻いては投げを繰り返します。
 タタキウキは鉛を鋳込んでありますから、このスピードで引くとウキと仕掛けは常に中層にあります。

 アタリはガッツンと明確に出ますので、大きなアワセをくれて巻上げ、寄せる波に乗せて取り込みます。
 イワシに狂ったスズキやヒラメが入れがかりなんてこともしばしばありました。
 小学校6年生のある日は、夜明けからお昼までの間に、50僉腺沓cmのフッコやスズキを64本と2繊腺牽毅悪弔離劵薀瓩鬘核腓眥爐辰燭海箸蓮▲錺靴領章咾今でも明確に覚えており、この釣果は未だに破れません。
 自転車に数匹を縛り自宅に帰り、今度は背負いカゴを背負って片道20分の道程を自転車で数往復しました。

 高校に進学した頃、ソルトルアーの第一人者であった西山 徹さん(故人)も汽車に乗って遠路東京から通い詰めていました。
 彼は、グラス竿にスピニングリールをロッドケースに入れクーラーと仕掛けを背負って小1時間の道程を歩いて釣り場に来ていました。

 テレビで見た後年の氏と異なり、ほっそりとしてインテリの風貌をした釣師でしたが、彼の著書「初めての海のルアー釣り」(だったと思います)で、地元の高校生とよく釣りに付いて談議したことが書かれているのを発見した時は実に驚きました。
   その著書には、ラパラのミノーを使用して試し釣りし、ルアーがスズキにも抜群の釣果を上げたことが海のルアー釣りの起源、その原点は田尻海岸でのタタキ釣りであることが記されていました。

 懐かしい数々の思い出を残してくれた今は亡き西山 徹氏のご冥福を祈って。合掌 (2004年8月)

         画像出典:  「釣りフォーラム」 WEB魚図鑑

   



     




 




アミエビ(イサダ)



第26話 まき餌解禁に思うこと!


 お盆に覗いたさる外房の漁港から、コマセ禁止の看板がなくなったと思ったら、千葉県内は先月(2004年8月)からコマセが解禁されました。
 今まで、禁止とはいいながらも、遊漁船も堤防も磯も全て黙認されていましたが、晴れてコマセ釣りが公認されました。
私たち釣り人にとっては、後ろめたさから解き放たれたって感じます。

 当初は食用にされていた南極オキアミやアミエビが釣りのまき餌として流通するまでは、アジ釣りにはイワシのミンチ、クロダイのコマセにはアサリやアメリカザリガニ、フナムシなどを潰して使っていました。
 また、外房の一部では茹でたとうもろこしや8个膜个量椶砲靴織汽張泪ぅ癲Εボチャの天ぷらを潰してコマセにしたり、付け餌にも使っていました。
 これらのコマセは、比較的比重が軽く、また、粒子も粗いため潮に流されたり、分解が早くヘドロ化や磯焼けの要因とはならない素材でした。

 南極オキアミやアミエビが釣り餌に転用されると、付け餌に食わせるために米ぬか、オカラ、魚粉、麦粉など様々な配合飼料が相次いで各メーカーから発売され、今日に至っています。

 遊漁者は高価なまき餌をふんだんに撒き、釣果が飛躍的に向上しましたが、漁師は採算が合わないことからまき餌を使用できず、また、遊漁者のモラルが成熟していなかったために、放置による悪臭や大量投棄に起因する磯焼けなどから対立し、各都道府県の漁業調整規則に「まき餌禁止」を明記する動きが広がりました。

 千葉県の漁業調整規則にも「まき餌禁止」が明記され、原則として県内では職漁・遊漁を問わず禁止されました。
 各漁港防波堤には、赤い塗料で 「まき餌禁止」 と大書され、入磯口には立看板が立てられました。
 その後、オキアミやアミエビの価格が下がり、職漁者も使用するようになったことから、黙認という状況が7月末まで続いたのです。

 この漁業調整規則は、海面利用協議会という漁業関係者と水産行政で組織された会議で決定され、遊漁者の意見は全く反映されないものでした。
 職漁師さんの大半は、先祖の代からその海で生活してきた人たちで、私たち遊漁者とは、土地や海に対する想いや関り方が違います。
 しかし、海は漁師さんだけのものではなく、遊漁者をはじめとする国民共通の財産なのです。

 (社)全日本釣り団体協議会などでは、まき餌の解禁と海面利用協議会に釣り人の代表が参加して意見をのべられるよう働きかけてきたことが、水産庁長官から示された「ガイドライン」「長官通知」に生かされ、千葉県の漁業調整規則 が改正され遊魚者用のパンフレットが配布されたのです。
 各都道府県の漁業調整規則の比較は、こちら からご覧になれます。

 さて、まき餌が解禁されて、釣師のマナーが一層問われるのではないでしょうか!
 磯焼けやヘドロ化の原因とされる赤土は厳禁ですし、糠やアミエビなど高蛋白で栄養に富んだコマセ類は港内や潮通しの悪い磯などでの投棄はやはり避けたいものです。
 また、釣座にこぼれたコマセは洗い流すなど、これまで以上に気を付けたいものですね。(2004年9月)
  

 


   



第27話 金アジの話!


 釣り人が釣りの対象としているアジ、学問上の分類は、硬骨魚綱 スズキ目 アジ科 マアジ属です。
[キアジとクロアジ]
 アジは「キアジ型」と「クロアジ型」に大きく分けられます。
 この両種は、体高・肉質・食味が大きく異なり、また、キアジの小売値はクロアジの数倍しますので、一部地域で金アジと呼ばれ高級魚の扱いをしています。

 マアジには回遊するものと瀬に付くものがいます。
 磯の浅場で生まれたアジは餌が豊富な地磯の岩礁で育ちますが、成長するにつれてその岩礁では必要な十分な動物性プランクトンや甲殻類の餌が確保できなくなると一部が餌を求めて岩礁を離れて回遊するようになります。
 岩礁の瀬に居着いたアジは大きく移動する必要がないため体高が高く脂肪分を蓄えて肉質は白くなります。
 これが「キアジ型」のマアジです。
 「キアジ型」は餌や光合成する海藻などの環境から黄色っぽく金色に輝くような遺伝子を持っています。

 餌を求めて回遊をはじめた群れは、イナダ・シマアジ・ヒラマサ・カツオ・マグロなどフイッシュイーターのより大きな魚に襲われないように或いは仲間より早く餌にありつけるように速く泳がなくてはなりませんので、脂肪をエネルギーにするため体高の低いスマートな魚体になります。
 これが「クロアジ型」のマアジです。
 「クロアジ型」は餌や環境或いはフイッシュイーターのより大きな魚に襲われないように目立たない色をしており、成長するにつれて口腔内は黒い膜で覆われているため「ノドグロ」と呼ばれます。

 東京湾の奥や九十九里はアジが付くような岩礁の瀬がありませんから、多分回遊性の「クロアジ型」だと思われます。

 「キアジ型」は、関東では岩礁の瀬がある東京湾口や外房に多いんです。
 千葉県では金谷沖の金アジが有名ですが、富浦のボート釣りでも多く釣れますし、神奈川県では走水沖や京浜大津沖などで金アジの比率が高いようです。
 外房の勝浦から南房の金谷にかけて釣れるアジには「キアジ型」がかなり多いです。
 17年の夏以降は金アジの比率が高く、小型が多いところをみると、遺伝子を引継いだ固体の湧きが良かったんではないかと思われます。

 現在、ブランド化されている金アジは「関アジ」と「ハイヤアジ」です。
 関アジは、大分県佐賀関前の豊予海峡で一本釣りで釣ったアジ。
 ハイヤアジは九州天草の瀬の海で一本釣りで釣ったアジ。
ですが、ブランドを守るため、金色に輝く魚体だけを選別して出荷しているようです。

 外房から南房にかけて釣れる25センチを超えるアジをみると口の中が黒い「ノドグロ」と呼ばれる「クロアジ型」がかなり混じり、私の釣り上げた5割前後はノドグロです。
 キアジは比較的浅い瀬に付いていて、太陽の光の影響を受けて輝く遺伝子を持ち続けるのに対して、クロアジは大きくなると太陽の光が届きにくい100メートルもの深場に移動するためより白黒の魚体になります。

 キアジは美味しいというのが通説ですが、
その理由は
  \イ防佞ため、餌のプランクトンや甲殻類などが豊富で旨味の素になること。
 ◆,海譴盪殘成分である脂肪を体内に蓄えていること。
  金色に輝く魚体と白い肉質が味覚を刺激する相乗効果。
だといわれています。
 外房から南房にかけての磯や漁港堤防で釣ったアジでも、「クロアジ型」は釣ったときはキアジと同じような金色の魚体をしていますが釣り上げてしばらくすると金色が消えて黒っぽく変わります。(2004年9月)

  

  

   








磯ブヨ関連サイト
(社)日本皮膚科学会



第28話 磯ブヨの痒〜い話!


 夏の海水浴場や釣場で、磯ブヨに刺され、猛烈な痒みに閉口した経験をされている人は多いのではないでしょうか。
 通称磯ブヨと呼んでいますが、2種類います。
 黒褐色で体長が1.5ミリほどのイソヌカカ(磯糠蚊)と体長2〜4ミリほどの磯ブヨです。

 イソヌカカは、波による塩水と雨水が交じり合った砂泥の中に、また、ブヨは防波堤などの海水と雨水が混じった水溜りや渓流などに発生するため、釣りや野外レジャ−の際に刺されます。ヌカカやブヨは朝夕に活動することが多く、特に露出したスネ付近や手の指間を刺される人が多いようです。
 いずれも吸血性の昆虫ですが、中枢神経を一時的に麻痺させるために毒性の成分を注入するようです。

 いったん刺されると、2週間ほど患部が赤く腫上がり猛烈な痒みに襲われます。
 夏場の釣りは暑さから、半袖に半ズボンでと考えがちですが、これらの害虫や紫外線から身を守るためには、長袖に長ズボンを着用して手袋をするなど、出来るだけ露出しないようにしましょう。
 また、露出している顔や手足には防虫スプレーを噴射して防御するとともに、刺された場合は掻かずに、抗ヒスタミンを含有したステロイド系の軟膏をすり込むと症状が改善しますが、重症の場合は、早めに皮膚科で受診してください。

   イソヌカカや磯ブヨの抗体は3週間ほどで出来るようです。
 3週間連続で刺されると、その後は刺されても痒みや腫れがさほど感じられなくなります。
 こうなってこそ、一人前の釣師と妄語する釣り人がいました。(爆笑)

 漁師町では、網戸や蚊帳をすり抜けて襲ってきますが、海女や漁師の手足を見ても刺された痕跡が見当たりませんので、抗体の話は本当かもしれません。(2005年7月)

  

 


   

台風のうねり(岩和田漁港前)






  気象庁
海洋の基礎知識







第29話 一発大波の恐〜い話!


 波とは何か?
 某辞書によれば、「風・振動などによって水面に生じる上下運動。また、その運動が次々に周辺に伝わっていく現象。」とあります。

 巨大波は、なぜ出来るのか?
 波は、風・振動などによって、あらゆる場所で無数に誕生しているのです。
 こうして誕生した波は、ぶつかり合い重なり合い(合成)ながら伝わっています。
 水面の上下運動ですから、寄せる波(+)と返す波(−)がぶつかれば、上下運動は0に近くなります。
 逆に、寄せる波(+)と波長の異なる寄せる波やウネリ(+)の方向が同じだと合成されて巨大波が生まれます。
 この巨大なエネルギーを持った波が「一発大波」と呼ばれています。
 ( 合成波高に関する気象庁の解説によれば複雑な計算式により求められるようです。)
 生まれた場所・向かう方向・強さなど全て異なる波ですが、相互に干渉しながら伝わっているものの、岸に近づくに従って同一方向に向かうと推定されます。
 サーファーにとっては待ちに待った千歳一隅のチャンス(湘南の海に伝わる伝説のビッグウェーブ、サザンオールスターズの桑田佳祐監督の映画「稲村ジェーン」でおなじみかな?)ですが、釣りや磯遊びをする人にとっては大変な危険性を持っています。

 通常では百波に一波が1.6倍、千波に一波が2.0倍の波高だそうです。
 しかし、「一発大波」と呼ばれる巨大な波は、確率からいえば数千波・数万波に一波の現象だそうですが、台風の前後やうねりがあって岸に向かって強い風が吹いている時には、数百波から千波に一波は発生するのだそうです。

 どんなに穏やかな磯でも、釣りをする時にはライフジャケットを装備するすることは常識でありマナーでもあります。
 また、危険と思われる磯には近づかない勇気、危険と思われたら撤退する勇気も常に持ち続けたいですね。(2005年9月)

  

 


   







第30話 ダイオウイカの話


 巨大イカ  ダイオウイカの映像撮影に成功!

 ダイオウイカは日本近海で産する巨大イカです。
 水深800〜2000メートルに生息するといわれ、死んだ個体は時々海岸に打ち上げられたり、水面を漂っていることが目撃され、ニュースや時の話題になったりしていました。
 2005年10月2日にYahooが共同通信のニュースとして、次のように活きた生態の撮影に成功したと伝えています。

 深海で暮らし、生態が謎に包まれている巨大イカ「ダイオウイカ」が海中で餌をとる姿の撮影に、国立科学博物館の窪寺恒己・動物第3研究室長らが世界で初めて成功。2日までに英国の専門誌に発表した。
 窪寺室長らは、イカを餌にしているマッコウクジラが多く生息する場所には、多くの巨大イカがいるはずだと推測。
 2004年9月、小笠原・父島沖で鯨の昼間の活動域である水深900メートルの海中に、カメラとダイオウイカの餌としてスルメイカを取り付けたひもをたらした。
 すると同月30日に長さ5・5メートルのイカの腕が針にかかり、30秒ごとに1枚撮影するようセットしたカメラが、全長8メートルほどの巨大イカが餌に飛び付いて針にかかっている様子をとらえていた。イカは約4時間もがき続けた後、腕が切れて逃げたという。(2005年10月)